落語入門「第六回 武左衛門の非業の最期」

今までの落語入門で、京都で活躍した噺家「初代 露の五郎兵衛」に少し遅れて「初代 米沢彦八」が大阪で、「鹿野武左衛門」が江戸で活躍して、大阪や江戸にも落語が根付いていった…ということを書かせていただきました。

前回は「江戸落語の祖」といわれる「鹿野武左衛門」について途中まで書かせていただきましたので、今回はその続きを書かせて頂きます。





持ち合わせた教養・博学と物真似などの芸などを駆使し江戸で人気を博した武左衛門ですが、彼は筆も立ち、1683年(天長3年)に咄本「鹿野武左衛門口伝ばなし」、1697年(元禄10年)に露の五郎兵衛と小咄の作品を競い合った「露鹿掛合咄」(つゆしかかけあいばなし)、1686年(貞享三年)には咄本「鹿の巻筆」などを残しています。

しかし、この「鹿の巻筆」が彼の人生を大きく狂わせます。

1693年(元禄6年)江戸にコレラが流行し一万数千人の死者が出た際、「南天の実と梅干を煎じて飲むとコレラが治る」と人の言葉を話す馬が話したと出鱈目を書いた小冊子を売り出して大儲けした浪人が、捕縛後にこの話のヒントを「鹿の巻筆」からもらったと自白し、この犯罪に武左衛門が連座していたとされ、大島に島流しにされてしまいます。

もちろん武左衛門はこの件とは無関係で、理不尽な島流しであることは明白なのですが、為政者が強大な権力を持っていた当時のことですから、なかなか覆りません。

1698年(元禄11年)になってようやく武左衛門は無関係との判断が降り釈放されますが、元凶となった「鹿の巻筆」はすべて焼却処分されており、彼自身も拷問を受けたことが原因で歩くことが出来なくなり、翌年失意のままこの世を去ります。

この件により、江戸での落語人気は影を潜め、江戸落語の発展が100年遅れたと言われています。

江戸落語で見台を使わない理由は諸説紛々ですが、武左衛門自身は見台を使っていたと伝えられていますから、江戸落語が人気を潜めている間に、見台を使う文化は江戸では廃れたのかもしれませんね。





次回は「落語中興の祖」と言われる「烏亭焉馬」(うてい えんば) のことを書かせていただこうと思います。

※こういう落語の歴史を知らなくても、落語を聴くことには全く差し障りありません。どうぞお気軽に落語を聴きにおいでください。(^^)

※もし間違ったことを書いておりましたら、大変お手数ではございますがご指摘ください。早急に加筆・訂正させていただきます。





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画像は先日の狸寄席2014春の「めくり」です。

野田亭なのださんは、独特の口調で、独自の世界感を持った噺を聞かせてくださいました。
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狸寄席は、地元で活躍する芸人(パフォーマー)の紹介の場でもありたいと思っています。札幌に来たら狸寄席を見に行きたいと思われるような、お客様に愛されるコミュニティを目指します。
Q 札幌に寄席をつくろうと思うわけは?
A 東京や大阪には、定席と言われる寄席があります。そして寄席のある街の周辺には昔ながらの賑わいがあって、風情があります。我々は、かつて7軒も寄席があったと言われている札幌の中心市街地に、気軽に生の演芸を体験できる場所をつくることで、街を味わい豊かにできるのではないかと考えています。狸小路を和服で行きかう人が増えたり、北海道の歴史や出来事を落語にする人がでてきたり、そうした街に魅力を感じて、街を愛する人が増えれば良いなと思っています。即物的に買い物を楽しむだけではない、そこにいる時間を楽しめる場所をつくることで、文化的に豊かなまちづくりに貢献できると信じて「寄席」づくりを目指しています。
Q 狸寄席と他の落語会の違いは?
A 狸寄席は、本場江戸の寄席のように、着流しでふらっと立ち寄れて飲食も楽しめることができます。また、地元で活躍する芸人( パフォーマー) も多数出演する札幌スタイルの番組で、どこにも真似できない寄席をつくっていきます。

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