2014/04/03
第三回の落語入門で、京都で活躍した噺家「初代 露の五郎兵衛」に少し遅れて米沢彦八が大阪で、鹿野武左衛門が江戸で活躍して、大阪や江戸にも落語が根付いていった…ということは前回書かせていただきました。
今回はその「初代 米沢彦八」について書かせて頂きます。
初代 米沢彦八は、元禄期に活躍した噺家で、生まれた年は不明ですが、亡くなったのは一説によると1714年(正徳4年)とされています。
「落語の祖」と言われる「安楽庵策伝」が生きたのが1554年(天文23年)~1642年(寛永19年)、前回登場した「初代 露の五郎兵衛」が生きたのが一説によると1643年(寛永20年)~1703年(元禄16年)ですから、初代露の五郎兵衛とは程同時代ですが、安楽庵策伝とは一時代違います。
今がちょうど2014年(平成26年)ですから、それぞれにプラス300年していけば時代の違いがお分かり頂けるのではないでしょうか。
仮にプラス300年すると、初代米沢彦八が2014年(平成26年)に亡くなったとして、安楽庵策伝がペリーが来航した1854年(嘉永6年)に生まれ、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に亡くなり、初代露の五郎兵衛が策伝死去の翌年の1943年(昭和18年)に生まれ、サダム・フセイン政権が崩壊する序曲となるイラク戦争が始まった2003年(平成15年)に亡くなった…となるので、この三者の世代の違いがお分かり頂けると思います。
と、ちょっと話がそれちゃいましたね。
初代 米沢彦八は、大阪市天王寺区に今も現存する生國魂神社(いくくにたまじんじゃ、生玉神社ともいう)の境内で、投げ銭目当てに辻噺をしていました。
当時、その境内には他にも大道芸人がたくさんいて、ある者は小屋を建ててその中で演じたり、またある者は露天で演じたり、その手法は様々だったようです。
その賑わいの中で、彦八は客に足を止めてもらうために「当世仕方物真似」(とうせいしかたものまね)という看板を掲げます。
おっと、ここで見慣れた言葉が出てきますね。
そう、「物真似」です。
彦八は、烏帽子や編笠などといった小道具を使い、大名や侍の物真似をするのが得意でした。
江戸時代の日本に強く存在していた封建社会を小馬鹿にし笑い飛ばす芸風は、武士に一方的に支配された鬱憤を晴らさせてくれる芸として、反権力の町である大阪の大衆に大いに支持され、人気を得ます。
その人気は現代までも受け継がれ、毎年九月の最初の週の土日には生國魂神社で「彦八まつり」が盛大に催されるほどです。
また、彼とほぼ同時代を生きた浄瑠璃作家の「近松門左衛門」の代表作である「曽根崎心中」の中に、主人公のお初を連れまわして生玉神社まで来た田舎者が、お初と離れ一人で彦八の物真似を見ている間に、お初がもう一人の主人公のかつての恋人、徳兵衛と再会する…というくだりがあります。
彦八が生きていた時代でも、彼の芸が相当話題にのぼっていたことがうかがい知れますね。
なお、彦八は「軽口御前男」「軽口大矢数」「祇園景清」などの著作に自らの話をまとめています。
そこにおさめられている噺は、落ちに重点を置かれたものが多く、大阪で活躍した彦八らしい作品と言えるでしょう。
策伝が「落語の祖」、五郎兵衛が「上方落語(京落語)の祖」とよばれているのと同様に、大阪で大衆に多大な人気を博した彦八は、親しみをこめて「上方落語(大阪落語)の祖」と呼ばれています。
次回は、彦八とほぼ同時期に、反権力の町大阪で活躍した彦八とは対照的な活躍をした、「江戸落語の祖」鹿野武左衛門のことを書こうと思います。
※こういう落語の歴史を知らなくても、落語をきくことには全く問題ありません。どうぞお気軽に落語をききにおいでください。(^^)
※もし間違ったことを書いておりましたら、大変お手数ではございますがご指摘ください。早急に加筆・訂正させていただきます。
今日の画像は2月4日に開催された「寺子屋ぽんぽこ」の前座で一席披露してくださっている綴家段落さんです。(暗くてごめんなさい)
「寺子屋ぽんぽこ」とは、「狸寄席」にまつわる、和のことや、狸小路のことをもっと知ることで、より深く「狸寄席」を楽しんでもらおうと思って開催しているイベントです。
次回の「寺子屋ぽんぽこ」は、「日本の刃物について、刃物を研ぐ」と題して、狸小路で創業して86年を迎える刃物屋さんの老舗「宮文」さんの宮本隆一先生をお招きし、刃物や狸小路について勉強します。
是非お立ち寄りください。