落語入門「第八回 噺家さんの亭号とは」

前回ご紹介した「江戸落語中興の祖」こと烏亭焉馬。

彼が「亭号」を初めてつかった落語家とも言われているということはちらっと書かせていただきましたが、今回は少し「亭号」について掘り下げようと思います。





亭号とは、今まで狸寄席にご出演いただいた噺家さんたちのお名前をお借りすると、柳家三之助師匠の「柳家」、春風亭柳朝師匠の「春風亭」、林家扇さんの「柳家」、金原亭馬吉さんの「金原亭」、8/2(土)の「狸寄席2014夏」にご出演予定の三遊亭金八師匠の「三遊亭」といった、いわば噺家さんの「苗字」ともいえるものです。

なお、「林家」という亭号は元々は「林屋」と名乗っていて、明治21年に五代目が林家正蔵を襲名したときに「林家」となったように、読み方は変わらずに漢字が変わる場合もあります。(ちなみに現在の林家正蔵師匠は九代目です)

「家」「屋」はともかく、「亭」も「料亭」という言葉もありますように「休憩用の建物」や「屋敷」という意味がありますので、建物に由来するものなのかもしれませんね。

もっとも、「桂」などのように建物に由来しなさそうな亭号もありますが…。

「露の」という亭号は、烏亭焉馬より先の時代に活躍した「露の五郎兵衛」から来ているのでしょうからやはり建物に関係なさそうです。





亭号によってその噺家さんがどこの流派に属しているかがわかります。

亭号は通例師匠と同じものが与えられるからです。

そして通常は一度与えられた亭号が変わることは、何か特別な事情がない限りありません。

例えば名跡を襲名するとき、もしくは何らかの事情で他門に移籍するときなどです。

ただし、師匠と弟子、兄弟子と弟弟子で亭号が違う場合もあります。

それはその亭号同士がもともと同じ流派だったりする場合がほとんどです。

もちろん他の理由で違う亭号を名乗る場合も散見されますが、ここでは詳しく書くのを控えます。

また、「朝寝坊」など「これも落語の亭号なの?」と言いたくなる亭号もありますが、この亭号は歴史が古く由緒正しい亭号だったりもするので非常に興味深いです。

なお、「初代 朝寝房夢羅久」は烏亭焉馬の門下です。





今日はこのあたりで筆をおかせていただいて、次回は「色物」について掘り下げさせてもらおうと思います。





画像は前回の狸寄席2014春の「めくり」です。

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わて家わらくさんは、上方仕込みのテンポよい芸を、小気味よく披露してくださいました。
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落語入門「第七回 江戸落語中興の祖」

前回の落語入門では、江戸で落語家として活躍していた「鹿野武左衛門」が、全く無関係の流言にかかわったと濡れ衣を着せられ、事実上落語家生命を絶たれてしまい、そのことが原因で江戸落語乃発展が100年遅れた…ということを書かせていただきました。

彼が亡くなったのは1699年(元禄12年)ですが、その100年弱のちに登場し、江戸に再び落語の文化を謳歌させた人物を今回はご紹介します。





その人の名は烏亭 焉馬(うてい えんば)。

寛保3年(1743年)に江戸で生まれ、文政5年(1822年)に亡くなった方です。

元々は大工の棟梁の家に生まれ、彼自身も大工棟梁となり、幕府の役人として幕府の施設の建築や修繕を行う「小普請方」という職についていました。

彼の能力は大工の棟梁だけにとどまらず、俳諧や狂歌、そして浄瑠璃の台本、滑稽本、洒落本など、多岐にわたりました。

また、演劇界のパトロンとしても力を発揮した人物で、歌舞伎役者の五代目市川団十郎とは義兄弟の契りをかわすほどでした。

今でいうマルチな才能を持ち合わせただけでなく、人脈的金銭的にも恵まれていた人物…と言えるのではないでしょうか。

焉馬はそれだけにとどまらず、天明6年(1786年)に新作の落し噺(つまり落語)を披露する会「咄の会」を、向島の秋葉大権現社の境内にあった武蔵屋という料理屋で開催します。

この会自体はまだ寄席という形ではなく、教養人が自作の落ちがある噺を互いに披露しあうというものでして、滑稽本「浮世風呂」や「浮世床」で知られる式亭三馬や浮世絵師の山東京伝なども出席していたとされています。

この会が評判を呼び、料理屋の二階などを会場にして定期的に開催されるようになったことで、再び江戸での落語が盛んになっていきます。

このことから、焉馬は「江戸落語中興の祖」と呼ばれるようになりました。





また、焉馬は「亭号」を初めてつかった落語家とも言われています。

亭号をWikipediaでひも解いてみますと…。

「文人・芸人などの号。作家・二葉亭四迷の「二葉亭」、噺家・三遊亭圓朝の「三遊亭」など。今日では主に落語家や漫才師が使う。」とあります。

それでは次回は歴史の流れから少し外れて「亭号」について少し深く掘り下げてみようと思います。





画像は先日の狸寄席2014春の「めくり」です。

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藤花亭梅殊さんは、北海道落語界のアイドルとして、学生時代から鍛えた芸を存分に披露してくださいました。

落語入門「第六回 武左衛門の非業の最期」

今までの落語入門で、京都で活躍した噺家「初代 露の五郎兵衛」に少し遅れて「初代 米沢彦八」が大阪で、「鹿野武左衛門」が江戸で活躍して、大阪や江戸にも落語が根付いていった…ということを書かせていただきました。

前回は「江戸落語の祖」といわれる「鹿野武左衛門」について途中まで書かせていただきましたので、今回はその続きを書かせて頂きます。





持ち合わせた教養・博学と物真似などの芸などを駆使し江戸で人気を博した武左衛門ですが、彼は筆も立ち、1683年(天長3年)に咄本「鹿野武左衛門口伝ばなし」、1697年(元禄10年)に露の五郎兵衛と小咄の作品を競い合った「露鹿掛合咄」(つゆしかかけあいばなし)、1686年(貞享三年)には咄本「鹿の巻筆」などを残しています。

しかし、この「鹿の巻筆」が彼の人生を大きく狂わせます。

1693年(元禄6年)江戸にコレラが流行し一万数千人の死者が出た際、「南天の実と梅干を煎じて飲むとコレラが治る」と人の言葉を話す馬が話したと出鱈目を書いた小冊子を売り出して大儲けした浪人が、捕縛後にこの話のヒントを「鹿の巻筆」からもらったと自白し、この犯罪に武左衛門が連座していたとされ、大島に島流しにされてしまいます。

もちろん武左衛門はこの件とは無関係で、理不尽な島流しであることは明白なのですが、為政者が強大な権力を持っていた当時のことですから、なかなか覆りません。

1698年(元禄11年)になってようやく武左衛門は無関係との判断が降り釈放されますが、元凶となった「鹿の巻筆」はすべて焼却処分されており、彼自身も拷問を受けたことが原因で歩くことが出来なくなり、翌年失意のままこの世を去ります。

この件により、江戸での落語人気は影を潜め、江戸落語の発展が100年遅れたと言われています。

江戸落語で見台を使わない理由は諸説紛々ですが、武左衛門自身は見台を使っていたと伝えられていますから、江戸落語が人気を潜めている間に、見台を使う文化は江戸では廃れたのかもしれませんね。





次回は「落語中興の祖」と言われる「烏亭焉馬」(うてい えんば) のことを書かせていただこうと思います。

※こういう落語の歴史を知らなくても、落語を聴くことには全く差し障りありません。どうぞお気軽に落語を聴きにおいでください。(^^)

※もし間違ったことを書いておりましたら、大変お手数ではございますがご指摘ください。早急に加筆・訂正させていただきます。





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画像は先日の狸寄席2014春の「めくり」です。

野田亭なのださんは、独特の口調で、独自の世界感を持った噺を聞かせてくださいました。

落語入門「第五回 江戸落語の誕生」

今までの落語入門で、京都で活躍した噺家「初代 露の五郎兵衛」に少し遅れて「初代 米沢彦八」が大阪で、「鹿野武左衛門」が江戸で活躍して、大阪や江戸にも落語が根付いていった…ということを書かせていただきました。

前回は「米沢彦八」について書かせていただきましたので、今回はもう一方の「鹿野武左衛門」について書かせて頂きます。





鹿野武左衛門は1649年(慶安2年)に大阪で生まれ、1699年(元禄12年)で亡くなった落語家です。

今までご紹介してきた方々の生年月日と比べますと…。

「安楽庵策伝」1554年(天文23年)~1642年(寛永19年)
「初代 露の五郎兵衛」1643年(寛永20年)~1703年(元禄16年)
「初代 米沢彦八」生年不明~1714年(正徳4年)

ですから、露の五郎兵衛や米沢彦八とほぼ同時代に生きた方…ということが言えます。





武左衛門は、大阪難波の漆の塗師の家に生まれましたが、塗師の修業を拒否し江戸(東京)に出てきました。

しかし、つても縁者もない江戸での生活は困窮の極みに達し、小さいころから得意としていた話術を生かして金を稼ごうと、道端に見台(机)を置き、小道具を使って辻噺を聴かせるようになりました。

同様に、芝居小屋や風呂屋にも武左衛門の活躍する場所が広がっていきます。

武左衛門の得意な芸は、身振り手振りを使って面白おかしく話す「座敷仕方咄」というものでした。

そのうち、武左衛門の芸は江戸の町で評判となり、武家や裕福な商人の屋敷に呼ばれ、芸を披露するようになりました。

大阪での米沢彦八の芸風が商人気質の大阪を象徴するかのように、「権力を小馬鹿にして笑い飛ばす」ものであったのに対し、武左衛門は「大阪に対する江戸の人々の優越感」を巧みにくすぐるように、敢えて軽薄にふるまうという芸風であったことも彼の特色と言えるかもしれません。

しかしその軽薄さも、歴史上の人物や文学作品等の豊富な知識や、仕草や声色を真似る巧妙さ、はたまた臨機応変な下ネタといった、教養や芸に下支えされたものでした。

このような活動を続けてきた武左衛門は、のちに「江戸落語の祖」と呼ばれるようになります。





ここまで書かせていただいたところで、ちょっと長くなってしまったので、次回に続きます。

次回は武左衛門の非業の最期について書かせていただこうと思います。





※こういう落語の歴史を知らなくても、落語を聴くことには全く差し障りありません。どうぞお気軽に落語を聴きにおいでください。(^^)

※もし間違ったことを書いておりましたら、大変お手数ではございますがご指摘ください。早急に加筆・訂正させていただきます。





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画像は先日の狸寄席2014春の「めくり」です。

綴家三千代さんは、初高座にもかかわらず落ち着いた口調で、ゆったりと噺を聞かせてくださいました。

落語入門「第四回 大阪落語の誕生」

第三回の落語入門で、京都で活躍した噺家「初代 露の五郎兵衛」に少し遅れて米沢彦八が大阪で、鹿野武左衛門が江戸で活躍して、大阪や江戸にも落語が根付いていった…ということは前回書かせていただきました。

今回はその「初代 米沢彦八」について書かせて頂きます。





初代 米沢彦八は、元禄期に活躍した噺家で、生まれた年は不明ですが、亡くなったのは一説によると1714年(正徳4年)とされています。

「落語の祖」と言われる「安楽庵策伝」が生きたのが1554年(天文23年)~1642年(寛永19年)、前回登場した「初代 露の五郎兵衛」が生きたのが一説によると1643年(寛永20年)~1703年(元禄16年)ですから、初代露の五郎兵衛とは程同時代ですが、安楽庵策伝とは一時代違います。

今がちょうど2014年(平成26年)ですから、それぞれにプラス300年していけば時代の違いがお分かり頂けるのではないでしょうか。

仮にプラス300年すると、初代米沢彦八が2014年(平成26年)に亡くなったとして、安楽庵策伝がペリーが来航した1854年(嘉永6年)に生まれ、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に亡くなり、初代露の五郎兵衛が策伝死去の翌年の1943年(昭和18年)に生まれ、サダム・フセイン政権が崩壊する序曲となるイラク戦争が始まった2003年(平成15年)に亡くなった…となるので、この三者の世代の違いがお分かり頂けると思います。





と、ちょっと話がそれちゃいましたね。

初代 米沢彦八は、大阪市天王寺区に今も現存する生國魂神社(いくくにたまじんじゃ、生玉神社ともいう)の境内で、投げ銭目当てに辻噺をしていました。

当時、その境内には他にも大道芸人がたくさんいて、ある者は小屋を建ててその中で演じたり、またある者は露天で演じたり、その手法は様々だったようです。

その賑わいの中で、彦八は客に足を止めてもらうために「当世仕方物真似」(とうせいしかたものまね)という看板を掲げます。

おっと、ここで見慣れた言葉が出てきますね。

そう、「物真似」です。

彦八は、烏帽子や編笠などといった小道具を使い、大名や侍の物真似をするのが得意でした。

江戸時代の日本に強く存在していた封建社会を小馬鹿にし笑い飛ばす芸風は、武士に一方的に支配された鬱憤を晴らさせてくれる芸として、反権力の町である大阪の大衆に大いに支持され、人気を得ます。

その人気は現代までも受け継がれ、毎年九月の最初の週の土日には生國魂神社で「彦八まつり」が盛大に催されるほどです。

また、彼とほぼ同時代を生きた浄瑠璃作家の「近松門左衛門」の代表作である「曽根崎心中」の中に、主人公のお初を連れまわして生玉神社まで来た田舎者が、お初と離れ一人で彦八の物真似を見ている間に、お初がもう一人の主人公のかつての恋人、徳兵衛と再会する…というくだりがあります。

彦八が生きていた時代でも、彼の芸が相当話題にのぼっていたことがうかがい知れますね。

なお、彦八は「軽口御前男」「軽口大矢数」「祇園景清」などの著作に自らの話をまとめています。

そこにおさめられている噺は、落ちに重点を置かれたものが多く、大阪で活躍した彦八らしい作品と言えるでしょう。

策伝が「落語の祖」、五郎兵衛が「上方落語(京落語)の祖」とよばれているのと同様に、大阪で大衆に多大な人気を博した彦八は、親しみをこめて「上方落語(大阪落語)の祖」と呼ばれています。





次回は、彦八とほぼ同時期に、反権力の町大阪で活躍した彦八とは対照的な活躍をした、「江戸落語の祖」鹿野武左衛門のことを書こうと思います。





※こういう落語の歴史を知らなくても、落語をきくことには全く問題ありません。どうぞお気軽に落語をききにおいでください。(^^)

※もし間違ったことを書いておりましたら、大変お手数ではございますがご指摘ください。早急に加筆・訂正させていただきます。





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今日の画像は2月4日に開催された「寺子屋ぽんぽこ」の前座で一席披露してくださっている綴家段落さんです。(暗くてごめんなさい)

「寺子屋ぽんぽこ」とは、「狸寄席」にまつわる、和のことや、狸小路のことをもっと知ることで、より深く「狸寄席」を楽しんでもらおうと思って開催しているイベントです。

次回の「寺子屋ぽんぽこ」は、「日本の刃物について、刃物を研ぐ」と題して、狸小路で創業して86年を迎える刃物屋さんの老舗「宮文」さんの宮本隆一先生をお招きし、刃物や狸小路について勉強します。

是非お立ち寄りください。

プロフィール

tanukiyose

Author:tanukiyose
狸寄席は、地元で活躍する芸人(パフォーマー)の紹介の場でもありたいと思っています。札幌に来たら狸寄席を見に行きたいと思われるような、お客様に愛されるコミュニティを目指します。
Q 札幌に寄席をつくろうと思うわけは?
A 東京や大阪には、定席と言われる寄席があります。そして寄席のある街の周辺には昔ながらの賑わいがあって、風情があります。我々は、かつて7軒も寄席があったと言われている札幌の中心市街地に、気軽に生の演芸を体験できる場所をつくることで、街を味わい豊かにできるのではないかと考えています。狸小路を和服で行きかう人が増えたり、北海道の歴史や出来事を落語にする人がでてきたり、そうした街に魅力を感じて、街を愛する人が増えれば良いなと思っています。即物的に買い物を楽しむだけではない、そこにいる時間を楽しめる場所をつくることで、文化的に豊かなまちづくりに貢献できると信じて「寄席」づくりを目指しています。
Q 狸寄席と他の落語会の違いは?
A 狸寄席は、本場江戸の寄席のように、着流しでふらっと立ち寄れて飲食も楽しめることができます。また、地元で活躍する芸人( パフォーマー) も多数出演する札幌スタイルの番組で、どこにも真似できない寄席をつくっていきます。

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